1972年にこの電車が撤去され、拡幅の進んだ国道10号の沿道から、あの独自の景観は失われ、日本のどこにでもあるロードサイドとなった。当時、大分県で最も高い建築物、別府の繁栄のシンボルのように見えた別府タワーは、周辺にビルが建ち並んだこと、そして巨大建築を見慣れた現代人にとっては、特段の驚きもない。片道3〜4車線化された国道10号を走らせると、あっと言う間に別府の市内を通りすぎてしまう。
○埋め立てによる「うみたまご」を核とするウォーターフロント開発
別府市と大分市の間は、別府湾に沿うシーサイドルートだったが、現代は大分市側で沖合の埋立が進行しており、車窓からの海はだんだん遠くになりつつある。かつて、このルート最大の難所で、台風によるがけ崩れでちょうど下を走っていた路面電車が埋まり、犠牲者を出してからは防護網等が取り付けられていた「仏崎」も、いまでは「仏崎跡」である。そういえば、この路面電車(大分交通別大線)を廃止する理由として、大分県から国道を拡幅するには単線の電車線を利用するしか方法がないと説明されていたように記憶する。なかでも仏崎周辺では、海中に向かって陸地が急峻かつ深く落ちているので埋立は不可能で、さりとて陸側も急峻で道路用地に乏しく、どうしても道路拡幅には電車路線以外にないという理由だったように思う。路線廃止から30年の時間経過は、そのような悪条件でも陸地化できる技術革新と、予算獲得を実現する政治力を地元が持ちえたという実証なのであろう。沖合を埋め立てたルートを使うようになった現在、路線跡を拡幅した旧道は使用されていない。
話は脱線するが、このシーサイドルートには、2つの海水浴場(白木、田ノ浦)があった。その後、侵食によって砂浜を失ったこれらの海水浴場跡はマリーンパレスと一体的に埋立・整備されて、2004年1月に大分マリーンパレス水族館「うみたまご」を核施設とするウォーターフロント開発が400億円を投資して大詰めを迎えている。大分銀行の経済研究所の試算では、直接はともかく間接合わせて690億円の経済波及効果を示しているが、筆者は懐疑的である。(賢明な読者の皆様には予想のつくことだろうが、理論的な精緻化を図るため、その理由は「うみたまご」の取材と合わせて後日お目にかけることにしたい。)
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門の前の駐車場

1971年当時の東別府。大分交通別大線はここから終点亀川駅前まで国道10号の中央を走る併用軌道となる。それにしても空が広い。露天風呂ならばさぞかしリラックスできたことであろう。
写真提供:松原遊士氏
「想い出鉄道探検団」より許諾を得て掲載
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