マインランド 尾去沢(1)

オープン20年を迎えたマインパークの“老舗”
歴史に忠実な観光坑道だが、集客向上のためアミューズ機能を付加
周辺に残る遺構は、廃墟探検ブームの新名所
2005年12月29日
※書籍「レジャーパークの最新動向2002」(2002年8月発行)の記事を掲載しています

 このレポートを作成中、たまたまネットで次のようなコンテンツを見つけた。「鹿角への思いと生かしたいこと」と題した、マインランド尾去沢のある秋田県鹿角市その地元尾去沢小学校6年・川上恵子さんの作文からの一節である。
 「・・・私の夢みているマインランド尾去沢は、自然豊かな景色の中に、建物があり、子どもや大人でにぎわい、時には動物達がうらやましそうに顔を出す。こんな観光地マインランド尾去沢です。マインランド尾去沢を守るためには、みんなが、自然を大切にし、動植物を大切にし、人間同士仲良くすることを大切にしていくことだと思います。」
 彼女の趣旨は、こうした「マインランド尾去沢」を実現するには、市民が責任を持って、自分なりにでききる町づくり活動に取り組もうというもので、そのステージとしてこのマインパークを挙げているのである。
 このように、前身の尾去沢鉱山は、地域と切っても切れぬ関係で、1200年の歴史をこの土地に刻んだ最大の功労者である。資源の枯渇とコスト割れでそのまま廃坑にもならず、再度「マインランド」として地位活性の役割を果たすことになったのは、地域にとっての価値が揺るがない証明でもあり、土地の遺伝子として次代に引き継がれている。
 さて、“自然豊かな景色の中に、建物があり、子どもや大人でにぎわい、時には動物達がうらやましそうに顔を出す”環境は、どうやら現在の遺構のありようをそのまま保全することで実現しそうだ。ここにコンクリートのビルディングは似合わない。
 「廃墟探検」ブームで一躍注目され、わが国のマインパーク展示演出の雛形を作ったこの「マインランド尾去沢」の現況を紹介する。


1.はじめに


 「マインランド尾去沢(おさりざわ)」は、ほとんどのマインパークがそうであるように、秋田県鹿角市の山中にある。秋田といっても青森に近い場所柄、冬は雪に閉ざされる。この地を訪れたのは、本格的な冬将軍到来する前の晩秋であったが、既に2、3日前にかなりの降雪を見たという。そのため「必ずチェーンを携帯してくるように」(営業部課長代理・阿部督樹氏)とのアドバイスを受けた。かつて、「ゴールドパーク鳴海」の舗装されていない山道を苦労して運転した経験から、「ヤマをなめちゃイカン」と再度カツを入れ直し、カーショップにてチェーンを入手するなど、万全の体制を整えて出発した(しかし、取材当日はポカポカ陽気で、チェーンを使うことはなかったのである)。

(1)尾去沢鉱山の歴史
 約1,200年の歴史を持つ“老舗”鉱山


 マインランドの前身となった尾去沢鉱山の歴史は、約1,200年という永い系譜があり、わが国の鉱山では老舗である。また、マインパークとしての集客事業を本格的にスタートさせてからの時間も長く、いわば鉱山史の雛形のようなっている。

 ではまず、マインランド尾去沢公式サイトの解説等をもとに、 (1)伝説時代、(2)金山時代、(3)銅山時代、(4)近代鉱山時代、(5)戦後に分類して尾去沢鉱山の歴史を整理してみよう。

1)伝説時代

 尾去沢鉱山の発見は奈良時代の和銅元年(708)と伝承されている。産金は奈良東大寺の大仏鋳造に使われた、あるいは平安末期の藤原氏によって築かれた平泉の黄金文化に大いに貢献したなどのエピソードがある。その全てが荒唐無稽な作り話に決めつけることもできないともいわれている。


2)金山の時代

 慶長3年(1598)、後に初代の金山奉行となる北十左衛門によって白根、五十枚、西道、槙山など尾去沢の諸金山が開発された。「田舎なれども 南部の国は西も東も金の山」と民謡にうたわれたように、ゴールドラッシュを迎える。藩政時代を通じて南部藩の領内では124の金山が開発されたと伝えられているが、なかでも盛んであったのが鹿角の白根・西道の両山であり、尾去沢を中心として計18の金山が開かれていた。『東北鉱山風土記』等によれば、慶長年間には金掘工だけで3,800人が働き、山間の僻地にたちまち数千軒の鉱山町が出現するほど盛んであったという。このゴールドラッシュは約70年続くが、寛文年間に入ると下火になり、やがて金山にかわって銅山の開発が進められていく。

3)長崎御用銅の時代

 江戸時代、延宝2年(1674)以降は、山師(鉱山開発の専門家)・阿部小平治(あべこへいじ)の働きによって開発が軌道に乗り、尾去沢は有力な銅山に成長する。

 正徳5年(1715)、幕府は南部藩に対して「長崎御用銅」という中国、オランダとの貿易決済に使われた銅65万斤(390トン)の供出を命じる。この量は尾去沢鉱山にとっては厳しい割り当てであった上に、買い上げ価格も安値であったため、鉱山経営は著しく藩財政を圧迫し、当然労働環境も過酷な条件を強いられる有り様だった。

 それでも、一進一退を繰り返しながらも産出量は徐々に向上し、幕末には伊予の別子(愛媛県)・秋田の阿仁と並んで全国の産銅を三分するに達していた。









4)近代鉱山時代

 明治5年(1872)、大蔵省は南部藩の借財処理にからんで、鉱山の稼行権(鉱業権)を盛岡の商人・鍵屋茂兵衛から没収し、岡田平蔵に払い下げ、さらに数人の経営者を経て明治22年(1889)には、三菱財閥の岩崎家にわたる。これ以降、閉山までの約90年は三菱の経営による近代化の歴史である。

 わが国初のアメリカ式の発破試験、削岩機やダイナマイトの使用、洋式製錬の開始、水力発電所の建設など、次々と欧米の近代技術が投入されていった。 
 大正5年(1916)、「浮遊選鉱法」による最新式の選鉱場が完成し、近代鉱山としての態勢が整う。その後、日清・日露戦争から第一次、第二次世界大戦へと軍事色が強まり、軍需物資としての銅の需要も急増し、これに応える形で生産も飛躍的に増大していった。
 昭和18年(1943)、軍需省の要請により超非常増産として、月間10万トンの鉱石を処理できる東洋一の選鉱場が増築されて、出鉱量は103万トンと史上最高を記録した。

5)戦後の鉱山時代

 終戦直後の停滞も、産業復興とともに資源少国における貴重な同資源として再び活気を取り戻し、生産量も復活する。しかし早くも昭和30年代に入ると、海外の開発途上国の鉱山開発が進み、世界的な過剰生産から銅の価格が低下してくる。やがて多くの鉱山と同じように、戦時中の乱掘などによる有力な鉱脈が減少し、鉱山としての老境を迎え、段階的に生産は縮小に向かう。昭和41年(1966)、すでに旧式となった製錬所が廃止され、昭和47年(1972)には親会社の三菱金属工業(株)から分離して尾去沢鉱山(株)となり、従業員も縮小された。そして昭和53年(1978)5月、長期にわたる銅価格の低迷と資源の枯渇でついに閉山に至る。

 なお、三菱の経営となった明治22年から閉山までの生産実績は、おおよそ鉱石出鉱量2,850万トン・銅30万トン・金4.4トン・銀155トン、鉛と亜鉛が各1万トンと推定されている。主な年次の従業員数と生産の実績は表1の通り。

○敷地内に「鹿角市鉱山歴史館」を設立

 尾去沢鉱山の歴史は、マインランド尾去沢の一角に国土庁(当時)の伝統的文化都市環境整備保存事業に指定を受けて、昭和57年に鹿角市が建設した「鹿角市鉱山歴史館」に詳しい。鉱山史の資料展示場として無料で公開されている。

 ここで採掘された大型鉱石標本40点に加えて、国内各地の鉱山から寄せられた鉱石標本20点、各国大使館を通じて収集された世界の鉱石標本約180点が揃っている。また、藩政時代から近代鉱山にいたるまでの工具を保存。採鉱、選鉱、製錬などに使われた用具類は、古文書類などとともに秋田県民俗文化財に指定された貴重な資料となっている。

 そして、尾去沢鉱山の模型展示は、鉱山の全景、選鉱場、明治初期の製錬を再現。全長700kmに及んだの坑道を1200分の1に再現した立体模型は、1,200年の歴史を実感できる展示となっている。

 現地を訪れた際は、観光坑道体験、廃墟のウォッチングとともにぜひ立ち寄って、歴史の重みというスパイスを驚きの印象に加えてもらいたい。


表1 従業員数と生産量の推移

年次

従業員数(人)

出鉱量(トン)

粗銅(トン)

明治27(1894)

1,205

29,300

740

大正元(1912)

1,637

119,372

2,188

大正7(1918)

2,491

206,913

2,352

昭和元(1926)

1,866

211,151

2,910

10年(1935)

2,138

534,866

5,663

18年(1943)

4,017

1,033,179

7,808

21年(1946)

2,977

193,560

1,217

25年(1950)

2,930

336,369

3,902

38年(1963)

2,311

797,785

7,856

47年(1972)

371

410,247

4,296

52年(1977)

309

231,564

2,710

(注)年次別の最高記録
 ※従業員数  昭和19年 4,492人
 ※出鉱量   昭和18年 1,033,179トン
 ※粗銅生産量 昭和38年 7,856トン  



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