赤れんが博物館 レポート(2)


 さて、舞鶴=赤れんがの町とアピールできるのは、市内の約130カ所に現存する赤レンガを使った構造物にある。「赤れんが博物館」のように現在も建物空間として活用されているものから、倉庫やトンネルや橋梁、敷石まで、適用範囲は多岐に及び、場所もまた広く市内各所に点在している。

 レンガの建造物といえば、小樽、横浜、横須賀、関門等、旧軍港あるいは歴史ある貿易港に多い。なかでも町のあちらこちらに現存しているといえば舞鶴が最大の規模なのである。実は大正時代は銀座にレンガ街ができるなど都市では馴染みのある建築だったが、関東大震災で地震に弱いことが指摘され、それ以降は外壁等の仕上げ材料としての用途に限定された。さらに多くの都市が太平洋戦争の戦災で都市資源を消失した中で、軍港であった舞鶴もまた昭和20年7月に米軍の空襲を受けているのだが、艦船が攻撃の対象になったせいか奇跡的に構造物への被害は限られたのである。

 このように、赤レンガの建物は、軍国日本の、明治から昭和の戦争の時代を想起させてしまう。時代が変わってもそれが町のあちらこちらで見かけられるのは、その時代を記憶する住民にとって決して好ましいとは言えなかったという(舞鶴海軍工廠の空襲では、女子や学生など非戦闘員が97人も死亡している)。軍港として開かれて、その発展と繁栄を象徴する地域を代表する赤レンガの建物群の景観が、歴史の転換で負の遺構に変わっていたのである




 そのポジションが再評価されたのは、平成元年以降のリゾートブーム、例の「リゾート法」と好景気に乗った一大消費時代の到来がきっかけとなった。「丹後リゾート構想」における重点整備地区として、赤れんが倉庫群の活用が組み込まれたのがきっかけである。ここから、平成2年には赤れんがを活かしたまちづくりが官民で検討されるようになり、同年には「まいづる探偵団」(市の若手職員のまちづくり自主研究グループが母体)が結成され、学の専門家を加えての赤れんが資源調査が行われた。その結果、「赤煉瓦シンポジウム」を開催、赤れんがの建物保存活動と地域に根ざしたまちづくりを、他地域で同様の活動を行っているグループや個人と交流を図りながらその具体化を進める「赤煉瓦ネットワーク」と、市の職員と市民が一緒に活動を行う「赤煉瓦倶楽部・舞鶴」が発足。赤れんがの町・舞鶴をアピールするイベントや啓発活動に取り組んだ。その中で、レンガをテーマとする博物館の建設気運が盛り上がり、市政50周年のタイミングを受けた事業として市が検討をスタート。平成5年11月に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫を改装してのオープンとなったのである。同年は約7万人の来場で賑わった。
(現在までの動向は「赤煉瓦倶楽部・舞鶴」のサイトに詳細がある。)
 以上のような知識を持たずに同館を訪れたとしても、隣接する「舞鶴市政記念館」、「舞鶴倉庫北吸五号倉庫」、「同六号倉庫」や自衛隊関連施設によって、赤れんがの建造物が舞鶴市ならでは地域資源であることが体感できるだろう。

次へ