芝居小屋の現在 
八千代座レポート(1)
 
 【目次】

  施設概要
  1.八千代座の歴史
  2.平成の大改修
  3.八千代座の特徴
  4.運営
  5.夢小蔵
  6.訪問記(1)
  7.訪問記(2)・まとめ

【施設概要】

所在地:熊本県山鹿市大字山鹿1499
電話:0968-44-4004
開館時間:AM9:00〜PM6:00(八千代座・夢小蔵共通)
休館日:12月29日〜1月1日
料金:大人500円・小中学生250円(消費税別)
建物規模:延べ面積1,487.4平方メートル
収容人数:約750人
建築年式:明治43年(1910年)
指定:国重要文化財(昭和63年)
ホームページ:
http://www.yachiyoza.com

 熊本県山鹿市といえば、山鹿温泉と1,000年以上の歴史を持つ「灯籠まつり」で全国に知られる観光都市である。ここには、明治の終わりに建てられ、2001年に『平成の大修復』が完了した芝居小屋、「八千代座」がある。実は、昭和40年代の閉館後、建物はそのまま放置され、老朽化が進み、“お化け屋敷”とまで揶揄された。それが見事に復活したのは、住民の復興運動の結果でもある。解体を免れ、見事に復活した八千代座の全貌をレポートする。

1.八千代座の歴史

(1)旦那衆の“接待”の場
 芝居小屋の誕生には、農民歌舞伎から出発したいわば自然発生的なパターンと、明治以降に繁栄を極めた鉱山業で働く人々のための福利厚生施設として作られたパターン(現存建築では、次回掲載予定の秋田県小坂町「康楽館」がその代表)に大別される。しかし八千代座の場合、山鹿の商工会の“旦那衆”によって発足した「八千代座組合」が設立した、今でいう"会員制クラブ"的な空間として誕生したという大きな特色がある。

 山鹿の街は当時、商工業の中心的都市として栄えていた。江戸時代から付近を流れる菊池川を利用した水陸交通の要衝として、関西などとの水運が活発で、さらに県内屈指の温泉場を核とする観光地としても古くから栄えていた土地だった。明治41年に熊本県内では熊本市に次いで2番目に電話が引かれたという事実が、その繁栄を示している。
 また、それ以前の江戸時代も、市内の豊前街道は参勤交代のルートとして、宿場町としても栄えていた地域でもあった。
 こうしたまちのリソースにより、いわゆる『ヒト・モノ・カネ』が集まってくると、自ずと文化、芸能が生まれてくる。明治43年、当地の裕福な旦那衆によって「八千代座組合」により、当時最大の娯楽施設であった“座”の建設が計画されたのである。目的は、地域住民が楽しむのが第一義ではなく、お得意さんの接待の場としての役割が強かったようだ。その後昭和55年に山鹿市に寄付されるまでの70年間、変わらず八千代座組合が所有し運営・管理を行ってきたのである。

 明治44年のこけら落とし公演では、松島屋一座の大歌舞伎が上演され、連日満員となる大人気ぶりであったという。その他に活動写真、浪曲、三味線の演奏会など、さまざまな催しが行われ、活況を呈していた。大正6年に芸術座によるトルストイの『復活』がかの松井須磨子により上演され、町中で劇中歌である「カチューシャの唄」が大流行したというエピソードも残っている。また、相撲やボクシングの試合も行われたといい、“一大娯楽センター”として有効に、そして活発に利用されていたことがうかがえる。


設立当時の八千代座
(八千代座公式ホームページより)
 こうして、大正から昭和20年代ころまでは隆盛を極めていたのだが、30年ころになる映画の時代となる。そのため、芝居興行が下火になり、対策として八千代座に映画館機能を付与するため、映写室が取り付けられた。ところが、当時山鹿には八千代座を入れると4つの映画館があったというが、この八千代座はイスを設置せず、畳に座るままの構造が映画鑑賞においては逆に不評となり、客足が遠のいてしまったという。そして、テレビの時代になると、映画も下火になり、結局八千代座も昭和40年代には経営不振となり閉鎖の憂き目にあったというわけだ。

(2)市民の瓦一枚運動を機に復興へ
 その後、建物は朽ちるに任せていたため、昭和55年に組合から市へ寄付された年には雨漏りもひどく、人々から「お化け屋敷」と呼ばれるほどひどい状況だったという。
 そのような“惨状”から見事に復興を遂げたのには、山鹿市の尽力は当然ながら、市民の復興運動が大きい。市が引き取った際、町中の一等地に建っていることもあり、解体して跡地にショッピングセンターを作ろう、といった話もあったという。それでも保存に向けて昭和60年に市は指定文化財への指定を行った。これを契機に、昭和61年に市の老人会を中心に「八千代座復興基成会」が発足、「瓦一枚運動」が始まった。これは市民から瓦一枚分の寄付を募るというもので、その募金により翌年には屋根の葺き替えが行われた。そうして昭和63年には国の重要文化財にも指定されることとなり、改築が施され、ついに平成元年には一般公開が可能となり、本来の「座」としての機能が復活したのである。

 このように存続できただけでも充分にラッキーといえるのだが、もうひとつとても運の良いエピソードがある。八千代座復興を願う女性カメラマンが、建物の資料を歌舞伎役者の坂東玉三郎に送ったことがきっかけで、平成2年から「玉三郎舞踏公演」が始まったのだ。実はこの時点では、応急処理的な修理を繰り返していた程度で、大物を呼んだ本格的な公演にはまだまだ厳しい状況であった。玉三郎が下見をした際には楽屋が使えなかったり、床が抜けていたりしたそうだが、それでも地元の熱意が実を結び、公演が実現した。このことがきっかけで八千代座は「玉三郎が来る芝居小屋」として全国に名が知られるようになったのである。玉三郎公演はその後も続き、これが弾みとなって平成8年から平成の大修理が行われることになった。

 そして平成13年5月に竣工し、8月には八千代座にとって二度目のこけら落とし公演が歌舞伎の片岡仁左衛門一行によって行われた。また、10月には5年半ぶりの玉三郎公演も行われている。以前は民間団体が主体となった実行委員会を組織して玉三郎公演を誘致してきたが、今公演からは主催が山鹿市、プロモーターが共同西日本という形になっている。とはいえ、前回までと同様に市民ボランティアの手により準備が進められており、地域を挙げて盛り上げていることには変わりはない。

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