4.市電コーナー
 続いて、“目玉”となる市電車両が並ぶ「市電コーナー」である。車両はその大きさとパンタグラフをちゃんと立たせる展示方法ゆえ、一段低い場所にある。
 7台の車両はよく整備されており、今にも動きそうである。というのは、きれいに塗装し直されているとはいえ、現役として活躍していた車両らしい“くたびれ感”があるのだ。それが逆に生命力を感じさせるのだから、「復元」(レプリカ)はそれなりの効果しか持てないのだな等と再認識させられる。
 展示車両は、「無蓋貨車」を除き、車内に入って、一部では運転席に立つこともできる。戦前・戦後すぐに生まれた、市電最盛期の500型、1100型、1300型の車両は、半鋼体型構造(半分が鋼鉄製という意味)で、床やシート、手すり等には木材がふんだんに使われている。床にはニスが効かされて、クリンネス状態もよく、落ち着ける。現代の通勤電車よりもよほど座り心地はいい。1100型は当時「ロマンスカー」と呼ばれていたのがわかる、落ち着いた雰囲気で、なるほど、“ミナト横浜の電車は洒落ている”と人気を博した理由がわかる。
 



写真3 市電コーナーの展示状況


 子供時代に展示車と同じ型式に乗った経験を持つ同行した浜っ子の記者に感想を聞くと、“こんなに大きい乗り物だったのか”という。実際、現役の長崎の路面電車や都電よりは一回り大きく、記憶では路面電車とはいえ郊外ライトレールの性格を持ちあせている阪堺電車と同等のスケールのように思えた。
 展示車の変遷を見ると、高度成長期のモータリゼーションの発展と都市への機能集中によって路面電車事業が経営悪化するなかでの、コストダウン志向が明確に把握できる。横浜市電最後の新造車となって1600型を見ると、それまでの落ち着きというか、クオリティは全く失われ、スチールで覆われた単なる輸送機器になってしまっている。車内照明に蛍光灯が初めて採用される等機能は革新されたが、ヒューマンウエア要素は見限られたのだろう。廃止の前は、いかにコストをかけないか、赤字を増やさないかが命題だったのだろうから。

 市電と呼ばれる路面電車は、戦前の1930年代には全国65地域で1,479kmの路線長を誇っていたが、99年には全国19地域・243kmの規模の過ぎない(「なんでもランキング」より)。
 概ね、市電が消えた都市のなかで、電停が消えた町は衰退する傾向がある。都心と直結したレールの存在は、ハレとケの連続感・安心感・一体感の命綱であって、ハレであった都心のポテンシャルを刺激する。
 僕が生まれ育った大分市もそうであった。レールの代替は道路ではだめだ。実際、バスに路線が代替したからといって収支が改善されたのか?逆に乗客が増えたのか?駐車場を都心に多数整備しても、郊外からお客を取り戻せたのか?
 レールは、必ずそこに到達する、向かうという意識の表明である。つまり、吸引したい中心商業地にとって、利用者は既に優良顧客なのである。顧客は、レールを中心とした範囲が日常だから、そこで大方の消費を完成させてくれる。

 バス停なのに平気で駐停車する、バスだと平気で割り込むようなタイプでも、電車通りでの右左折は神経質になる。電車の行く手を妨害するのは(現代においては)ドライバーにとって大きなプレッシャーになる。つまり路面電車を利用するというのは、それだけ社会的・空間的に優遇されているのだ。ドア・ツウ・ドアは極めて個人的で、他人には無関係である。だからマナーがひどく、もたもたしていたり、突然に停車する等でカーッとする。相手がひょっとして体調が悪くなったり、あるいは初めて訪ねるような機会で迷っているのではとか、事情を他人は理解しない。そうした構造を許容することで、郊外商業は成立している。ゆえに事業者は一生懸命顧客化を図ろうと、IDカードシステムやポイントプログラムに精を出すのだ。レールがあれば、そこまで苦労しない。
 町はそこに暮らす生活者の連帯意識によって形成されているコミュニティである以上、いつでも精神的・機能的に連続しているという機能と安心を保証する動脈が必要なのである。その役割を果たしていたのが路面電車であり、「電車通り」とは、その町いちばんのロードサイド文化を代称している。この動脈を切ると、連帯的なコミュニティは表層化し、それまでは動脈によって整理され解消されていた個人のウォンツ解消意欲がますます個人化する。これが自動車と一体化した結果が郊外化なのである。郊外におけるコミュニティが伝統的下町に比較して形成されにくいのは、コミュニティ内の動脈の強弱の差といえよう。これが中心商業地あるいは都心商業衰退の遠因でもある。だから、路面電車を現代的なLRT(Light Rail Transit)システムとして再生しようとする岡山市や札幌市のような動きが、路面電車がそもそもなかった都市を含め、全国的に拡大しつつあるのだ。




写真4 市電コーナーで車両展示を
フォローするパーツ等の展示





写真5 500型の展示
 話を電車コーナーに戻そう。
 市電コーナーの壁面には、市電の登場から廃止までのエピソードが写真パネル化されて掲示されている。これはエントランスに集めた方がいいと思った。なにせ実車両に夢中になってしまう。むしろ、電停に掲示していた停留所名の表示板に興味を持った。
 実は東京都心でも、都電の旧停留所表示板がサインとして現在でも使われているところがある(例:西新橋。「ここはバス停ではありません」と表示)。なぜか、その書体デザインに暖かみを感じてしまう。
 展示車の車内だが、広告の車内貼りやつり革の広告、運転席周りの注意書き、路線図等、活躍当時そのままの状態が欲しかった。ここの運営は公共ゆえ広告の掲示は難しいかもしれないが、広告もまた文化として認知されており、歴史の変遷を今に伝える有用なメディアである。電車内の空間をそのまま再現しておくことこそ、鉄道に興味のない人でも感動を与えられるのではないか。 写真6 展示車の内部(500型)
 なお、1300型は復元した電停と一体となった展示となっている。当時、わずか15cm高い電停でも、安全地帯としての機能を果たしていたという。しかし、その高さから電車に乗降するとなると、健康な足腰が要求される。現代では、安全地帯はさらに嵩上げされ、電車も「低床式」の導入がはじまり、ステップのない乗降が可能なバリアフリーが標準化されようとしている(都電、熊本市電、広島電鉄、長崎電軌等)。時代の変容はこんなところにも見えてくる(それでも電停が安全地帯化されているだけでうらやましい。当時、僕が故郷で利用していた大分交通別大線のほとんどはクルマで混雑する国道上に乗降スペースをペイントしただけの“決死”的停留所だった)。
 この市電コーナーのレイアウトはかなりゆとりがあるため、デッドスペースに電車のパーツやレールなどが邪魔にならないようにうまくレイアウトされ展示されている。特に電車の運転席はあちらこちらに再現されており、ファンや子供の心理をうまくついたサービスであった。また、旧・横浜駅東口にあった大時計等の、市電と共に歴史を刻んだ機器類の展示もあり、横浜市郷土資料館的な要素も感じられた。


写真7 1300型と滝頭電停の復元


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