夕張・石炭の歴史村(6)


2.空間
レジャーで集客、石炭をやさしく解説(2)


○石炭と炭鉱を入坑シミュレーション体験で理解

「石炭博物館」は歴史村の中核施設で、大きく3ゾーンに分かれている。

1)1階:大昔の植物が長い年月を経て、貴重なエネルギー資源である「石炭」となるまでと、夕張の石炭が発見されるまでを模型や当時の資料で紹介

2)2階:石炭の持つエネルギー利用の歴史と今後の役割、採掘生産技術、国内炭鉱の歴史、炭鉱会社に根付いた「友子(ともこ)制度」(注2)などを人形、資料、映像で紹介

3)地下坑道:
・竪抗ケージ/石炭採掘の地下1,000mの坑内へ入坑シミュレーション体験
・炭鉱風俗館/明治期の開坑当初から閉山する昭
和に至るまでの炭鉱労働と技術の変遷、夕張の地域の移り変わりを人形と写真パネルで紹介。
・炭鉱機械館・採炭作動館/実際炭鉱で使われていた各種機械類の展示と、現在の炭鉱の生産現場で使われている最新の機械か設備の実演見学
・まっくら探検(史跡夕張鉱)/国内で唯一の見学炭鉱として、実物の坑道や採炭現場・石炭層を見ることができる(模擬坑道)。その史跡の中をキャップランプの証明だけで見学する炭鉱体験。

 以上のような構成で、順を追って「石炭」「炭鉱」を学習できるのだが、先述のようになかなか興味を持ちにくいため、展示物や掲示物の表記の補完機能としてガイドを配置して、フェイス・トゥ・フェイスの対応も行い、特に修学旅行、社会科見学の学生の理解を深めるように配慮している。

 また、3期に分けて施工し、第一期として「生活歴史館」がオープンした「郷愁の丘ミュージアム」は、かつて2万5千人の炭鉱労働者とその家族が居住していた夕張の町の文化をテーマにした新たなテーマパークである。第二期として「シネマバラード」(映画資料館)、第三期として「夕張の花の押花館」「石炭ガラス工芸館」がオープン予定である。



  注2:友子(ともこ)制度

 飯場制度と巧みに結びついて労働者を監視支配するとともに、相互扶助のために重要な役割を果たした制度。労働者は、友子との間で親分・子分・兄弟分の関係を結ばないと一人前の坑夫になれなかった。坑夫を新しく友子に加盟させることを「取立(とりたて)」といい、坑夫の側からは「出世」といった。友子に加盟するための親分・子分の関係を結ぶ儀式「取立式」を、盆か正月に数人又は数十人とまとめて行われ、式にはヤマの元老をはじめとする幹部、鉱山関係者、隣山の幹部等による厳しい席順の立ち会いで、親分と子分の「結びの盃」が交わされ、この席で「坑夫取立免状」により厳しい誓約が義務づけられる。加盟すると親分には絶対服従で、3年3カ月10日の修練期間が決められ、この期間は他の鉱山への移動は禁止され本来の作業見習いの他に親分・兄分に対する身の周りの世話など雑事に追い回される。

 この組織には、新入りを指図する当番頭・中老・大当番・元老という厳しい身分制によって固められ、このうち大当番は箱元といって交際や冠婚葬祭などのいわば会計係を兼ね、元老はヤマにおける友子の代表で絶対的な権力を有していた。一方、ヤマにおける冠婚葬祭には、米や金銭のカンパが行われ、またヨロケ(じん肺)やケガによる廃疾者が出た場合は、全国の各鉱山で共済しようと奉願帳を回し、治る見込みのある長期療養者には期限を切って寄付帳が回されて救済された。

 このような封建色を根強くもった組織のもとで服従し、鉱山資本により虐げられつづけた鉱山労働者は、明治末期から大正デモクラシーにかけて、足尾と別子に代表される暴動や、労働組合の組織化・争議等で一定の前進がみられた。しかし昭和恐慌後は、健康保険法の施行(大正15年)によって友子同盟は廃止されたとはいえ、鉱山に因習として根付いている友子の古い体質を利用した鉱山資本の巧みな骨抜き策によって、敗戦に至るまで長く暗い無権利状態が、昭和中期頃まで続いた。



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