3.「佐渡」「尾去沢」の先行オープン施設を参考 鯛生金山は、明治27年、干魚の行商人が拾った石から始まった。その後、外国人経営者による近代技術を駆使した大規模な金山として栄え、その周辺には事務所、病院、小学校、配給所、倶楽部、山神社などが設備され、鉱山町を形成した。(略年表参照) 「鉱脈の上部は掘り尽くしたことから、どんどん下へと掘り進み、その深さは540メートル、海抜0メートルまで掘り進んでいます。しかし、この辺りは地下水が多く、排水のための費用がかさんで、採掘コストは、市場と見合わなくなりました」(鯛生金山観光管理事務所所長 吉本博則氏以下同)と閉山の経緯を語る。 それがどうやって、観光坑道としての遺構活用の道を歩むことになったのか。 「昭和47年に閉山が決まり、金山跡のすべてが中津江村へ寄贈され、中津江村の所有となりました。その活用方法は酒蔵など、いろいろアイデアはありましたが、観光坑道として、みんなに見てもらおうというアイデアを出したのは、当時の村長でした。そこで、観光坑道として先行オープンしていた『佐渡』、『尾去沢』を見学に行って、その内容を検討し、昭和58年のオープンにこぎつけました」。つまり、先行したマインパークを参考とした“習作”だったわけである。 オープン以来18年で、累積来場客数は約415万人。「これは、坑道へ入った客数で、道の駅だけの利用客数はカウントされていないため、その約倍の800万人と見ています」と認識している。入込のピークは夏休みとゴールデンウイークで、来場客は福岡県からが最も多く、続いて熊本、大分の順になる。また、「近隣の温泉や観光地の周遊コースとして、阿蘇山、菊池渓谷、杖立温泉などで一泊して、翌日来場というパターンが定着しているようです。また、雨が降ると、目的地を変更して、ここへ来られることも多いです。雨に強い施設ですね(笑)」と周遊コース化されていることを強調する。 |
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■略年表
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