2.日本一の産出量を誇った金山 「高玉金山」は、安土桃山時代から天正年間(1573〜1591年)において、会津藩領主・芦名盛興によって開山され、以後昭和51年の閉山まで4世紀の歴史を持つ金山である。開山したころ、時はまさに戦国時代。諸大名は生き残りをかけ、武器や兵隊の調達、また献上物として、財源確保のための金銀獲得は重要であったことから、金山開発を奨励していた。それを裏付けるように芦名盛興は、この「高玉金山」以外にも加納、高旗、佐渡と次々に発掘。それらをあわせて、「芦名四金山」といわれている。 江戸時代の様子は、はっきりしとした記述がみつからず、その衰勢は不明であるが、次ぐ「鉱山心得」(鉱山は全て明治政府の所有となる法律)を公布した明治時代には、国営化と同時に当時の近代的な金精錬法を導入。 昭和4年(1929年)には、日本鉱業(日立鉱山)に払い下げられる。そしてピーク時の昭和10年(1935年)には年間1トン以上の金を産出し、日本一の金山として隆盛を極めた。 戦後、昭和37年(1962年)には、日本鉱業の手を離れ、高玉鉱山(株)として再出発するが、エネルギー資源政策の転換による国内鉱山の縮小のすう勢には勝てず、昭和51年(1976年)金の総生産量28トン、銀280トン、採掘総延長約800kmで採鉱にピリオドを打った。それから20年後の、平成8年(1996年)に観光施設「ゴールドマイン高玉」としてよみがえったのである。(略年表参照) 「高玉金山」は主に本山(もとやま)・青木葉(あおきば)・鶯(うぐいす)の三抗部(ひとつの坑口から広がる採掘エリア)から構成され、 同施設は、青木葉エリアに属している。金は、国内の金鉱山では1トンあたり2〜3gほどしか採掘されないが、この青木葉抗では、多いときには1トンあたり10〜20kgも産出されていたという。 |
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■略年表
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