6.来場者の鉄道体験記憶を活性させる演出=ドラマ

 鉄道の思い出とは、車両にあるわけでなく、多くの人は「駅」にあるだろう。ハイウェイのサービスエリアはただ休むだけ。あそこには何のドラマもない。しかし駅は、駅ができた頃から、それぞれの人生のドラマがクロスする唯一の場所であった。
 個人と家族があるいは地域社会との分かりきった永久の別れが日常だった時代もあったし、人生の区切りをつける場所でもあり、家族や恋人との別れや再会の場所でもあった。今だって、日曜日の夜、最終の「のぞみ号」が出発する頃にホームを覗いてごらん。カップルを中心に、様々なドラマを見ることができる。いくら「道の駅」を整備しても、そこはトイレ休憩所と地元名産センターに他ならない。絶対、ドラマは生まれない。
 つまり、舞台としての駅を再現して、車両のポテンシャルも発揮されるのではないか。なにも某駅を忠実に再現しろというのではない。展示演出として、ホームと車両そして若干の音を加えるべきなのだ。これらの演出が一体となって、ココロに刻み込まれた自分のドラマを車両の空間で、記憶のディレクトリを自分でデータ・マイニングするプロセスを省略して、直感として再度の感動を呼び出せる。特に「鉄道体験=ドラマが多いが、その記憶の整理には介助が必要となる」中高齢層こそが集客のメイン・ターゲットと規定すれば、この演出は必須の施策ともいえるだろう。
 「佐久間レールパーク」がこのように意識したのかは不明だが、実は各展示車両の前には、その車両の機能説明(例えば機構的な特徴等)と歴史(活躍した線区:旧国鉄時代は鉄道車両も全国での転勤がよくあった)の紹介と並んで、その車両が活躍した頃の時代情勢を併記した案内板を設置している。
 これを見れば、“この車両が花形電車と言われた頃、ちょうど東京オリンピックだったのか。ああ、山陽新幹線が開通してから地方線、ドサ回りになったのね。それで最後はオイルショックで新車が作れず、出足がいいから、駅間の短い飯田線でまた脚光を浴びたのか。”“これは日本人の中年サラリーマンと同じだね。でも俺は引退してからこいつみたいに余生を大事にしてくれるかね?”等と、無骨な鉄道車両も何となく擬人化できるようになる。
 しかしこのイメージングでも、見学者に創造力をかなりたくましくするように求めるわけで、誰でもという訳にはいかない。
 ここで、「駅」の演出の登場が望まれるのである。これなら、たとえ引退した新幹線0系の先頭車両の一部であっても、ドアがあれば「シンデレラ・エクスプレス」で燃えたあの頃を思い出せるのでは?
 鉄道車両はなにもしゃべらないし、なにもしてくれない。ただそこに静かに佇んでいるだけである。そこで“確かに何か聞こえた”“確かに俺には見えた”体験をしてもらう。これが集客哲学として事業者に認識されるべきと考える。
 それでは具体的にどうすればいいか?うーん、その具体策を公開するのは無料の範囲を超えており(--;)、ましては個別提案の領域なので、ビジネスとしての話にしましょう(^_^)。
 ちなみに、我々は否定的な見方にあるのだが、旧新橋駅復元プロジェクトがどのような結果となるか、楽しみである。


写真6:展示車両の前に設置され、機能と時代を記載した説明板。写真では記載内容が見えないが、左にはその車両が活躍した時代とトピックス、右には車両自体の機能説明が記載されている。

7.設備・文献資料等は豊富、図書室は団体に占領

 展示館の1階、つまり来場してすぐの場所には、全長120mという大きな鉄道のジオラマが(あまり他を見たことがないため規模の印象は個人的)置かれている
 。ミニチュアの町を走るのはのぞみ500系や通勤電車だ。これを、マスコンとブレーキを操作して、自分で運転して走らせることができる。ゲーム「電車でGO!」の画面が模型とジオラマになった感じで、こちらは運転席からではなくて、“神の視点”から列車を制御する。やってみると結構楽しく、ちょうど居合わせた子供たちに負けないほど熱中してしまった。ただし有料で、100円硬貨が必要なのだが、その規制は利用時間か運転回数なのかは判別できなかった。

 「電車でGO!」と言えば、ジオラマの隣にある「体験シミュレーション」と名付けた装置がまさに具現している。実際の車両の運転席を使って、ホンモノのマスコンとブレーキを操作して運転を行うというのだが、操作と画面はシンクロしていない。要するに、運転席に座って、そこから見た飯田線のトンネルあり橋梁ありの運転室からの展望映像を見るだけというもので、これも100円が必要であった。期待される装置ゆえ、ゲームでないことの断りが必要であろう。
写真7:ジオラマに熱中する子供達

写真8:体験シミュレーションの展望映像


 多数の鉄道資料の展示は興味深い。歴代の駅務に使用した全ての装置、道具類を見ることができる。このまま、戦前・戦後の駅を再現できるくらいの収集点数である。

 筆者が特に関心を持ったのは、昔の指定券発行システム(いわゆるマルス)。現代ではペンまたはスクリーンタッチのインターフェイスだが、以前は薄い鉄板に駅名を書き込み、そこに穴を開け、ピンを穴に差して駅を指定するデバイスであった。その板は全駅分あるから、書籍のようにめくって利用する。切符を「みどりの窓口」で購入する際必ず見かけたなつかしいシステムである。

 写真9:展示館に保存されている多数の資料類

 写真10:なつかしいアナログ式のマルス


 このほか、飯田線の変遷を展示した写真パネルや、沿線の風景画、精巧な模型の展示等が多数用意されている。絵画作品の中には来場者よりも出展満足で終わっているような表現も見られたが、それなりに山間路線の四季を想像できた。

 隣にある資料室を覗いたが、地元の体育会系の高校生グループが飲料水片手に場所を占領している。書庫には専門文献や雑誌類などなかなか充実した蔵書のように思われた。ここは図書館のはずだが、全く別の空間利用を見せられ、極めて不快であった。山間の、こうした静かな、ターゲットがある程度明確化されたレールパーク佐久間にあっても、やはり団体の攻勢にさらされる。それも施設利用とは無関係な!
 本ウェブサイトにある淡路花博の報告にもあるが、集客施設特に観光系には、個人単位の来訪に対するCSが無視されているケースが多い。団体目当ての、要するに事業者(出資者)なりそれを評価する存在が、来場者数ばかりにこだわり、さらに自立的に事業収益を考えようとせず、相当に粉飾したシミュレーションで満足し、それが実現しないとあたかも事業そのものが失敗だったかのように騒ぎ出す。そもそも最初から失敗なのだ。
 どのような集客施設であっても、規模の大小や事業者の経営体制を問わず、そこには見てもらいたい・体験してもらいたいハード・ソフトが存在する。その存在の評価(希少性・内容・認知・インパクト・発展性等)から、どのようなプロフィールにまず体験してもらいたいのか、そうしたクラスターがどれだけ存在するのか、実際にはどれだけの来場者が見込まれるの等をマーケティングのアプローチによって規定。その結果が事業シミュレーションとなる。
 実は、ここまでのステップで、ほとんど事業の成否は予想がついていて、マーケティング精度を高めるほど事業者の希望には沿えない結果になる。すると、ここからが“業界テクニック”の駆使である(自省を込めて)。マーケティングセオリーを無視した、いや消費者の存在、もっといえば人間の嗜好と逆行した、「期待因子」の発掘と、それについての「おおらかな環境」をシミュレーション要素に加味する(実際はさせられる、と言った方が正しいだろう)。あとは近未来小説だ。評価は先の話。現状では、確かに、数字は完璧だ!どこに破綻があろうか?
 淡路花博は、当初の予想入り込み数を大幅に上回る結果となった。しかし団体中心のイベントは、個人客には必ずしも快適ではないのレポートにあるとおりだ。 
 JR東海の立場では、学生は地方ローカル線区では重要な利用客だから大事にしたいのであろう。それは鉄道事業の公共性もあり、一般もそれを容認する社会の信頼関係があるからである。居合わせた体育会系学生グループで、地元なのか、それとも夏休み期間中で、対外試合か何かでこの地を訪れていたのは定かではない。しかし、施設の本来利用者をオミットするような存在・態度であれば、利用を拒否する姿勢が欲しい。

 なお、同館には専任のスタッフが置かれていないようで、開館スケジュールから予想するに駅職員が通常の「駅務」の延長で応対に当たっている様子であった。基本的には来場者の自由に任せるスタンスであったが、それなりに「訪ねられたら対応する」「様子を見ていて、困っていたら対応する」姿勢がちゃんと見られたことを評価したい。

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